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August 2013

August 30, 2013

実は首都圏もギリギリだった?震災直後の東海村原発の記録


東海村原発から約2キロの地点(2011年5月5日)
福島第一原子力発電所の汚染水処理が問題になっている。タンクに貯蔵していた高レベル放射性廃棄物質を含む汚染水が漏れてしまう事故が発生したが、一刻も早く収束することを心から願いたい。

東日本大震災にともなう福島第一原発事故の問題は、時間が経過するに連れて関心が薄れがちになっているような気がする。3.11の震災によって発生 した原発事故は、けっして他人事ではなかった。同様の規模の震災にみまわれれば、首都圏や、日本全国にある原発周辺の地域でも、同じような事故に遭遇した 可能性がある。

東海村原発は大丈夫だったんだろうか

首都圏に住む私が震災直後に心配したのは、東海村原発の被災状況だ。メディアでは、鹿島灘を下った津波が、大洗港などに被害を与えていることが報道 されていた。そのことからすれば、さほど離れていない東海村原発が津波被害に遭った可能性は否定できない。もし、首都圏にもっとも近い東海村原発が被災し ていたら、首都圏自体も危険な状態に陥る可能性が高い。東海村原発自体、98年に商業利用は終わっているが、今後数十年かけて解体作業を進めることになっ ているため、震災による事故は起こりうる。
残念なことに、マスコミの取材は、福島第一原発や東北地方に集中しており、東海村原発に関する信頼性の高い情報はなかなか出てこない。

そのため、個人で東海村へ取材に向かった。ガイガーカウンターすら入手できない中で、目に見えない放射線について検証しなければいけない原発事故を 精査するのは非常に難しい。結局、原発や原子力関連施設の被災について明確な証拠を拾えなかったため、取材データを今まで放置していた。取材日は、 2011年5月5日だから、震災発生から1カ月後ほどの時期だ。
改めて写真を見てみると、首都圏もギリギリな状態だったことが見えてくる。


震災で屋根が広範囲にわたって壊れたJR東海駅(東海村原発の最寄り駅)
東海村原発がある茨城県のJR東海駅は、上野から電車で1時間ほどだ。
草木の緑が目にまばゆく、駅のホームから見える景色からは、原発がある街とは思えない。非常にのどかで、取材ではなく、ピクニックにでも訪れたような錯覚を覚える。だが、改札の外に出ようと階段をあがってみると、震災が残した爪跡を目の当たりにすることになった。
「屋根はどうしたんですか?」

改札を出た後、駅の売店でお茶とパンを買いながら、レジのおばさんにそれとなく尋ねてみた。

「ああ、これね。この前、大きな地震があったでしょう? あれで屋根が壊れちゃったのよ。あなた、ここの人じゃないみたいだけど、どこから来たの?」

「東京です。」

「あっちは、大丈夫だったの?」

「それなりに揺れましたけど、大事にはなってないですね。」

「良かったわね。今日は遊びに来たの?」

「はい。お寺さんに参拝した後は、大洗のほうにでも遊びに行ってみようと思いまして」

取材が目的で訪れたとは言わなかった。街全体が、原発に関連する産業に携わっている人がいるわけだから、客観的な情報を得るためにも、自分が東海村に訪れた目的は、できるだけ誰にも告げないほうがよいと思ったからだ。

買い物を終えた後、改めて駅舎に出てみたが、相当揺れたのだろうなということがよく分かる状態だ。至るところに補強材と足場が組まれており、屋根の修復を行っている。午前10時だというのに、真っ暗な場所もある。

屋根を修復中のJR東海駅

駅を出て、まず取材に向かったのは、JCOだ。
1999年には、核燃料加工作業中に臨界事故を起こして、首都圏自体に緊張が走る事態になった。今回の震災で何か変化が起きてないだろうかと考えたのだが、工場に近付くにつれて心配は増した。

JCOから1キロも離れていない地点にあった石材店の駐車場に置いてあった石灯籠が見事に倒壊していた。この大きさの石灯籠が倒壊するとしたら、相当揺れたのだろう。

再び、工場に向かって歩いていくと、道路の途中にある電柱の上部が見事に歪んでいた。

これだけ揺れたのに、本当に原子力関連施設は大丈夫だったんだろうか。

ガイガーカウンターが入手できればよかったのだが、震災直後は、今のように安価ではなく、また入手困難だったため、とうとう携行できなかった。空間線量を調べることができなかったのは残念だ。

手元の携帯のGPSで、地図を確認しながら、道を進む。
以外なことに、JCOは、住宅地に隣接した場所にあった。壁越しに施設が見える場所に移動して写真を撮ってみたら、外壁にうっすらとヒビが入っているよう に見える(有刺鉄線と重なるあたり)が、大丈夫だったのだろうか。(ちなみに、JCOに電話取材してみたが、回答はなかった)

いっ たん、JR東海駅に戻って、今度は、東海村原発へ向かって歩く。駅を出たとたんに、道路におかしな模様があるのを見つけて首をかしげた。近寄ってみると、 ヒビをアスファルトで補修してある。写真でも分かるように、相当の距離に渡って修復されている。近隣の方に聞きこみをしてみたが、いつごろこの修復が行わ れたのか明確な答えは得られなかった。

震災によって起きた道路の破損の修復を自治体が急いだのだろうかと思ったのだが、道を進むにつれて、近隣への聞きこみ取材を続ける必要がないと思うに至る状態が見つかった。

東海村原発から2キロほどの地点。歩道の右は、水田で地盤が緩いのか、道路自体が、地すべりを起こしているような状態らしい。

「そんなことないと思いますよ」という不思議な雰囲気

災害や事故の取材を行う際に重要なのは、客観的な証拠を得ることだ。今回は、目に見えない放射線による被害を調べるわけだから、ガイガーカウンターなどの計測器を持参できなかったのは、致命的だ。

電話取材で、東海村役場や、東海村原発を管理している日本原子力発電株式会社(げんでん)に、取材を申し込んだが、事故の可能性については、否定された。

もっとも、事故が本当に起きていないのであれば、当然否定するだろうし、大規模な事故が起きていれば、同様に否定する可能性がある。

したがって、あまり取材を重ねてもあまり意味がないと、当初から考えていた。その中で、気付いたことがある。原発や原子力施設関連関係者に限らず、街の人まで、極めて楽観的な意見が多いのだ。

東海村で出会った様々な人に、震災にともなう東海村原発の事故の可能性と、今後もし同じような震災が発生した場合、福島第一原発のような事故に至る可能性がないかということについて尋ねてみた。

ほとんどの人からは、「そんなことはないと思いますよ」という回答が返ってきた。何かを隠す後ろめたさが潜む話しぶりがまったく見られないことをみると、生活している中で、危機的な状況が起きていることを感じる情報が入ってくることはないのだろう。

それだけに、東海村役場が、30分おきに放送している内容が気になった。

東海村の空間線量が上昇しているのは、福島第一原発の事故の影響で、健康に影響はないという内容だ。
2011年5月5日の時点で、首都圏に福島第一原発から放出された放射性物質が到達することについて、政府や自治体が積極的に広報していた記憶はないし、また、首都圏のメディアがそのことを報道していただろうか。私は印象にない。

東海村役場は、混乱を防ぐために放送していたのかもしれないが、街の人達がほとんど気にしていない中で、繰り返し聞こえてくるこの放送は逆に気になった。

※取材中に、録音した東海村役場の放送のMP3データは私のホームページにアップしてある。時間があれば聞いてみてほしい。放送内容のMP3

地図に沿って東海村原発の敷地周辺を歩いてみたが、改めて震災の影響を見ることになった。これだけの震災の影響を受けながら、事故が起きなかったとすれば、幸運だとしかいいようがないようにも思う。

原発敷地のフェンスの一部は倒れかけていて、ロープで木にゆわえて支える応急処置がされていた。

モニタリングポストと呼ばれる 空間に漂う放射性物質を計測する施設。有刺鉄線越しに見る感じでは、被災の影響はみられず、きちんと機能していたようだった。

原発敷地から一番近い民家は、瓦が落ち、ビニールシートで養生している家が目立った。近隣の川の河口は、海水が遡った後が残っていた。地元の方がいうには、河口も波が入ってきたという(鹿島灘を下った津波の余波だろう。かなりの水で、木が倒れてしまったらしい)。つまり、鹿島灘に面している東海村原 発が被災する可能性はゼロではなかったということになる。

福島第一原発事故は、地震や津波などの自然災害の想定が甘かったため、被害が拡大してしまったとされている。原発の存続問題が議論されている。仮に 廃炉を選ぶにしても、作業が終了するまで数十年の時間が必要と言われる。その間に、今回のような地震と津波をはじめとした事故が起きるリスクはゼロではな い。

こういったことも考えて、私たちは原子力と向かい合わなければならないことを、もう一度議論するべきだろう。






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August 22, 2013

13日~16日 伊勢神宮と名古屋を取材してきました

去る13日から16日まで、名古屋~伊勢を回って取材してました。
20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮を取材するためですが、
東京に負けず、とにかく暑かったです。。

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20年に一度行われる神事 伊勢神宮の式年遷宮については、ガジェット通信さんに寄稿しています。
よろしければ、こちらを 二十年に一度の神事 伊勢神宮式年遷宮






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August 21, 2013

8月23日発売 新刊「うちの職場は隠れブラックかも」

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すでにアマゾンでは予約がはじまっていますが、
新著「うちの職場は隠れブラックかも」を23日より
発売させていただくこととなりました。

今の日本は、
働く人のための法律を、
企業社会全体が
無視する無法地帯と
なりつつあるのが現状だ。

でも、びくびくせずに、
もう少し
ゆる~く考えて大丈夫だ。
あなたの
不安を解決する方法は
いくらでもある。

(カバー帯文より)

景気回復が言われるようになりましたが、
雇用情勢は決して改善しているとはいえません。

非正規労働に従事する人は全体の38.2パーセントで、
2044万人に達しています。
巷では「正社員になれば安定」と言われていますが、
残念ながらそうではありません。

正社員になっても、法律家や労働組合に頼れる状態でなければ、
簡単に失職してしまう時代です。

失職してしまえば、再就職するまでに3~6カ月は
かかると言われています。

あくまで、これは統計的な数字ですから、
さらに時間がかかる人もいるでしょう。

もちろん、普通に転職活動を続けていれば、
以前と同じ待遇で働けるようになるとは限りません。

また、転職するにあたっても、
いわゆるブラック企業にひっかかってしまえば
収入どころか、体を壊してさらなる窮地に陥ってしまう可能性が
高いのが現状です。

本書では、
1・今現在勤めている会社でのトラブルの解決方法
2・就職・転職時にブラック企業や怪しい企業に引っかからず、
  スムースに仕事を見つける方法
3・失職時に、生活費をひねり出したり、自分の就・転職サポーターを作るノウハウ
この3つを柱に、実際に使えるノウハウを提示しています。

まずは、一番もめる会社から理不尽な仕打ちを受けた時の、
あの手この手の闘い方を網羅してあります。

これだけでも役立つことと思いますが
万が一の失職の際に備えるライフライン構築法も。

そして、他ではなかなか教えていない
就転職の際に、絶対にハローワークが教えてくれないノウハウも提示しています。
その一部を目次から抜粋してご紹介させていただきますね。

大丈夫だ、安心してほしい!職場で悩むあなたに役立つ日本国憲法を味方につけた『鬼の就業マニュアル』登場!!

 

■目次

第1章 辞めることを覚悟して闘う人―会社との闘い方1(高給取りほど失職の危機にある
労働者とは、あなたのこと ほか)

 

第2章 職は失わず、話し合いで解決したい人―会社との闘い方2(法律家や警察などを頼る、その前にすべきこと記録を時系列上に整理したら、いよいよ戦闘開始 ほか)

 

第3章 失職に備えるライフライン構築法(ネットとリアルで、100人以上の連絡網を作れ
就職をサポートしてくれるリアルな友だちをつくる ほか)

 

第4章 再就職・転職に潜む地雷―ブラック企業と怪しい企業(ブラック企業とはなにか
これがブラック企業の証拠だ! ほか)

 

第5章 ハローワークでは教えない「鬼」の就業マニュアル(ハローワークに通うのは時間のムダ?ネットの無料転職サイトをフル活用! ほか)

第5章 ハローワークでは教えない鬼の就業マニュアル
ハローワークに通うのは時間のムダ
クリック一つでネットの無料転職サイトに応募できる大勢をつくる
ネットとリアルで100人以上の「友人」連絡網を作っておこう

タダメシつきのイベントは、名刺と保存容器持参で漏らさず参加
求人票から隠れブラック企業を見分けるポイント

応募の顔写真は、3分間写真でなく、ここ一番気合いを入れて
守らないと必ず落ちる郵送時のルール
面接の前にオフィスの周りを30分は歩け
隠し録りのススメ


???な項目タイトルもあると思いますが、読んでいただくと
なるほど!と思われるかと思います。

以前、職業訓練校の講師をしていたのですが、
就・転職に臨む人は、企業側の選考の土俵に乗る前に
落ちている人が少なくありません。

また、たまに耳にするようになりましたが、
就職・転職をハローワークだけに頼るのは得策ではありません。
残念ですが、運に恵まれない限り、
新しい職場に就くのは遠のく可能性が高いです。

本書では、そういった就・転職時の裏情報や、
知られていないノウハウも公開しています。
働くことに悩む方は、ぜひ一度手に取ってみてくださいね。





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August 19, 2013

8月15日 聖母被昇天の日の特別料理

8月15日は終戦記念日です。
平和を祈る大事な日ですが、今年は、聖書にちなんだ料理を作りながら、平和を祈ることにしました。

なんてことを書くと、ずいぶん敬虔な感じがしますが、僕は九州出身で、母方が隠れキリシタン時代からのカトリック教徒なんで、生活にキリスト教の習慣が溶け込んでいるんですね。

8月15日は、聖母被昇天の日といって、聖母マリア様が肉体と魂とともに天に召されたとされている日です。
僕が子供のころは、盛大にお祝いする習慣がありました。ちょうど、仏教の旧盆に重なることもあって、キリスト教が禁教だった隠れキリシタン時代は、宗教行事を行う大義名分が揃うことがあったからかもしれませんね。


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母方から聞いていた、隠れキリシタン時代の聖母被昇天の日の祝日の料理を再現してみました。
当時から、保存のきく麺類の生産は盛んだったようで、細うどんやそうめんはよく食べられていたようです。
母が子供の頃は、強力粉をピーナツオイルで伸ばしたパスタ(ド・ロ神父がもたらしたドロ様そうめん)なども食べられていたようです。

僕が子供のころは、こんな料理に、聖餐(キリスト教で重視されるキリストの肉体を象徴するパン)を模したおまんじゅうがついていました。
今のように、甘いお菓子をふんだんに食べられる感じではなかったので、とてもうれしかったのを覚えています。
長崎の原爆の犠牲になられた永井隆医学博士も、同じように、聖母被昇天の日におまんじゅうをもらったということを書かれているので、やはり九州の隠れキリシタン時代から続く習慣なのでしょう。

さて、この日は、聖母被昇天の日の特別料理をアレンジしてみました。

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チキンといちじくのソテーなつめやし風味

いちじくは、聖書によく出てくる果実ですが、お肉との相性もよく、お肉が柔らかくなります。
なつめやし(デーツ)も、聖書によく出てくる果実ですが、栄養価も高く滋味深いあじわいになります。この日は、なつめやしが手に入らなかったので、はちみつで代用しました。

チキンといちじくのソテー

鶏胸肉500グラム
たまねぎ 大1個
いちじく大4個
塩 大さじ1
はちみつ大さじ1(なつめやしを干した物があれば1粒刻んで肉にまぶす)
クローブ、カルダモン適量

1:鶏肉は一口大にカットします。(包丁を使うのがしんどかったら、キッチンはさみなどでカットしてもいいと思います) たまねぎは、くし切りにカット。いちじくは、皮をむいて適当な大きさにカットしておきます。

2:カットした鶏肉に、クローブ、カルダモン、塩をまぶして、軽くまぜあわせ、冷蔵庫で30分ほど寝かしておきます。

3:タマネギを、くし切りにカットし、フライパンでオリーブオイルをたらし、弱火で炒めます。

4:たまねぎに火が通ったら、火を強くして、寝かせておいた鶏肉を炒めます。

5:鶏肉に火が通ったら、いちじくを加えて、つぶさないように、軽く混ぜ合わせます(余熱でいちじくに火がとおり、甘味がお肉に回ります。) お皿に盛りつけて完成

全能永遠の神よ、あなたは御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、共に天の栄光にあげられました。信じる者すべてがいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。Amen

不安が叫ばれる時代ですが、かつての戦争の時代を繰り返さないように。また、今日の日が、過去に奪われた貴い命を悼む日で在り続けますように。

さて、折角、教会で記念の食事を作る機会に恵まれたので、聖書にちなんだ料理をもうちょっと作ってみることにしました。

聖書では、キリストがお弟子さんや人々と食事をするシーンがたくさん出てくるので、どの料理を再現するか迷ったのですが、再現してみたいと思ったのはこの一節に書かれている料理でした。

新約聖書 ルカによる福音書第10章38-41

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。
するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言葉に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙しくて心を取りみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

キリストとその御弟子さんが入った村というのは、エルサレムという街の郊外にあるベタニヤ(ヘブル語で悩みの家という意味らしい)という村のはず。

当時、ほとんどの人は、大麦でできたパンと水か、たまに塩で味付けした「いなご」を食べて生活していたという記録があります。中流以上の家庭になると魚やお肉がたまにつくという感じ(特に、お魚は貴重品で、肉よりも高級品とされていたようです)

ふだんは質素な食事なのだけれども、大事なお客様が訪問すると、びっくりするほどの量の食事を用意して歓待するのが、彼らのならわし。しかも、女性が食事の準備や、客人の足を洗う水桶や寝室の準備までやるのが当然とされたのが当時の道徳のようです。

いまでも、これだけのことをやると大変でしょうけど、当時はガスなんてないから火を起こさないと食事は作れないし、なにより水が豊富にある地域ではないから、水汲みに出かけなければいけない。寝室の準備などまでやるとなると、相当ハードな肉体労働のはずです。

引用した新約聖書で書かれているマルタという女性は、働き者の女性だったと言われています。
聖書には明確に書いてありませんが、奇跡を起こす救い主と噂されていたキリストとそのお弟子さん一行を見つけ、「どうぞ今夜や家に泊まっていってください」と持ちかけたんでしょう。

当然、マルタは、当時の女性がやるべきとされていた道徳にしたがって、キリストを家に招いた後、かいがいしく御馳走を作ったり、いろいろなことをやっていたはずですが、自分が当時の道徳に従ってもてなしているのに、キリストは関心をもってくれない。
それどころか、もてなしの手伝いをせず、ただ座ってキリストの話に聞き入っているマリヤに、キリストは何も言わない。
そうなると、不平を言いたくなるのは当然ですよね。実際、マルタは、キリストに「妹にももてなしの手伝いをするように言っていください」と伝えるわけですが、キリストは、そんなマルタの不平をよく理解できるという口調でいさめます。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。


つまり、救い主と言われたキリストを家に招いたのに、道徳にしたがって、食事の準備や寝室の準備をして、折角、キリストを家に招いたのに、キリストと話をする機会を失ってしまっている。

キリストがマルタに伝えた言葉の真意は謎ですが、「道徳や常識にとらわれ過ぎて、今という二度とない時間をないがしろにしないようにしなさい」ということを説いているような気がします。
これは現代でも十分当てはまる話ですね。

さてさて、そのマルタがキリストをもてなそうとしていた料理とは、どんなものだったのでしょうか。
色々文献を調べてみましたが、こんな感じの料理じゃないかと思います。

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写真上 たまねぎとひよこ豆のソテー

写真下 ガリラヤ湖の魚のソテー

これにパンが加わるのですが、パンは撮影忘れました。ごめんなさい。
さて、作り方です。

●タマネギとひよこ豆のソテー
(大人3人分くらい?)
たまねぎ 大2個
ズッキーニやピーマンなどの緑色の野菜 小1個
ひよこ豆 100グラム程度(めんどうなので茹でたものの缶づめが便利です)
オリーブオイル 大さじ1
塩 適量 クローブ 適量

1;たまねぎは、皮をむいてくし切りにカット。ズッキーニやピーマンなどの緑色の野菜は、火が通りやすいように、千切りなどにしておきます。(包丁を使うのが難しいと思う人は、スライサーやキッチンはさみを使うといいです)

2:フライパンにオリーブオイルをたらし、弱火にかけます。 たまねぎをいれて、火が通るまで炒めたら、緑色の野菜を加えていためます。

3:ゆでたひよこ豆の缶づめをあけ、水気を切ってひよこ豆を加えたら、クローブ、塩を加えて、なじませながら1~2分炒めて完成 (ひよこ豆が手に入りにくいなら、大豆の水煮などの缶づめで代用してもいいと思います)

●ガリラヤ湖の魚のソテー
日本だと淡水魚がかなり癖があるので、白身の海水魚(今日はかじきまぐろ、)で代用しました。(聖書の時代、魚は高級品で、マルタもイエスに魚を供しようとしていた可能性が高いです。)

かじき、たらなどの白身のお魚 3~4枚
おろしにんにく 少々
塩 小さじ半分
オリーブオイル 大さじ1
カルダモン 適量 カイエンペッパー、パセリ少々

1:魚の切り身は、塩、おろしにんにくをまぶした後、カルダモンをふりかけて、冷蔵庫で10~30分ほど寝かせておきます。

大勢でとり分ける場合、魚を一口大にカットしてから、塩、おろしにんにく、カルダモンをまぶすといいでしょう。

2:フライパンを強火にかけ、オリーブオイルをたらします。 強火のまま、魚を投入。はしで、すばやく魚をひっくり返して、両面が薄いきつね色になったら、皿に盛ります。 (火傷に注意してくださいね)

3:皿に盛った後、カイエンペッパー、パセリをまぶして飾り付けして完成です。

当時のもてなしは、大皿に盛ることがほとんどだったらしいので、そんな感じにしてみました。
ちなみに、どの料理も余ったら、タッパーに入れて保存できます。パンにはさんでサンドイッチにしても美味しいです。
ワインのアテにもいいですね。

楽しい食事の中で、豊かで優しい気持ちになれたら、自分の大事な周囲の人にやさしくできるでしょうし、その優しさは、もっと外にいる誰かを優しくしてくれると思います。
特別な日に平和を願った御馳走を作ることができて、とても幸せでした。





 

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August 09, 2013

長崎原爆忌

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北九州が舞台になった原爆を題材にした拙著 児童向け小説「ぼくたちの空とポポの木」のテーマである長崎の原爆投下の日から、68年目の朝を迎えました。

とても暑く、よく晴れた日となりました。
68年前の長崎も、こんなお天気だったのでしょうか。

ちょうど68年前のこの日、原爆を搭載した米軍のB29爆撃機
「ボックス・カー」は、グアム島の近くにあるテアニンの基地を
飛び立ち、僕が生まれた街・北九州の小倉に向かっていました。

奇しくも、68年前のこの日の小倉の空は
前日の八幡大空襲の煙のために
地上が確認できないほど曇っていたことと、
芦屋、築城から戦闘機が迎撃のために上昇してきたため
急遽、攻撃目標が長崎に変更されたそうです。

広島に投下されたウラン235型原爆の2倍以上、
TNT火薬22キロトン相当の破壊力があるといわれていた
プルトニウム239型原爆・ファットマンは、

一瞬にして長崎の市街地を焼き尽くし、
死者・負傷者14万人、消失面積6,702,300m2
全焼全壊計約12,900棟という被害をもたらしました。

また、爆発の際に放出された放射線の影響で、
現在も後遺症と戦っている方が
たくさんいらっしゃいます。

NBC・長崎放送の記者として活躍された伊藤明彦さんは
ご自身の被爆体験を通して、
1971年より、全国を訪ね歩いて
ヒロシマ、ナガサキの被爆者の方284人の証言を、
音声ファイルに収めていらっしゃいます

被爆者の声 ヒロシマ・ナガサキ 私たちは忘れない
※クリックすると、音声ファイルを納めたホームページに
ジャンプします。ぜひ一度ご高覧ください

当時は、現在と社会環境が違った部分があったとはいえ、
家族や地域社会の人たちと生きていく「生活」の本質は
現在と変わらなかったはずです。

様々な年齢、そして様々な社会的立場にあった方たちが
述べられる68年前の生々しい体験は、この問題が
決して過ぎ去った過去の危機ではないことを
伝えているように思います。

同時に、経済が一国の政治の力すら凌駕する
する力を持ち始めた現在の社会に住む私たちは、
この問題が、私たち日本人だけの問題ではなく
今も続いている危機であるということを伝えていかなければ
ならないように思います。

68年前の長崎の街を、私は見たことがありません。

訪れた人を暖かく迎えている
異国情緒の街・長崎のシンボルともいえる
浦上天主堂は

暖かく澄み切った荘厳な空気の中、
静かに人々をみつめているかの
ように見えますが

原爆投下によって倒壊し、
再建された時期があったのですね。

残念なことに
イエス・キリストに導かれ
洗礼を受けたクリスチャンであった大統領の命によって
浦上天主堂は、

同じ神を信じた多くの尊い命とともに、
天へ帰ることとなってしまったのでした。

イエス・キリストが十字架にかけられ
磔刑の後、復活の奇跡を人々に示したように
浦上天主堂は、今は復活した美しい姿を見せています。

当時の面影は、やはり薄れてしまっているそうですが
焼け焦げたアンゼラスの鐘と聖母マリア像が

この街に住む方と訪れる人々に
人類の歴史を刻んだ一日を
今も静かに物語っているように見えます。

同時に
憎しみを捨て
赦しを与える寛大な心と強さを持つことで

神々しいまでの
満たされた生を手に入れられることを
強く 静かに
私たちに伝え続けているように
思います。

もし
8月6日の広島に雨が降っていたら
8月9日の小倉が晴れ渡っていたら

おそらく間違いなく小倉に
原爆が投下されたことでしょう。

そうしたら、私はまず生まれてくることが
できなかったでしょうし
当然こうやって文章を綴っていることもないはずです。

私たちは、ふだん意識することはありませんが
私たちの命は、私たちだけのものではありません。

次の世代の命を育むためのものでもあります。

今ある命を絶ってしまうことは、
これから先、生まれてくるかもしれない命を
絶ってしまうことでもあるのですね。

68年前の運命の日、小倉に原爆が投下されなかったために
この世に生まれてくることができたのかもしれないと思うと
そのことを「幸運」とか「運命」いう言葉で語るには、
やるせない思いを感じずにはいられません。

このように原爆の問題は、
広島と長崎だけの問題では
ありませんでした。

戦争当時アメリカは、原爆の投下予定地として
複数の都市を
候補にしていました。

たとえば、首都圏有数の政令指定都市である横浜も
原爆の投下予定地として有力視されていましたが
5・29の横浜大空襲のため、投下予定地から
外されてしまったそうです。

最終的な投下目標が絞られた後も
米軍は、原爆投下に備えた訓練のために、

東京、静岡、茨城、福島、新潟、富山、愛知、
京都、岐阜、滋賀、大阪、愛媛、徳島、山口
をはじめとした約50箇所に
「パンプキン爆弾」という
原爆と同じ重さの通常火薬を積んだ
模擬原爆を投下しています。

http://www1.ocn.ne.jp/~susuma/bombing/509/509MSN.htm

大阪の東住吉には、模擬原爆が投下された
記録を残すための碑が
現在も残っているそうです。

そのことを考えると、広島や長崎の方だけでなく、
他の地域で生まれ育った方も、ひょっとすると、
この問題に大きく関わりを持たなければ
いけなくなっていたかも
しれませんね。

誤解のないように付記しておきますが、
僕は、アメリカ政府が決定した原爆投下の加害を
責めるつもりはありません。

紙幅が足らないため詳細は割愛しますが
すでに70年近い時間が経過していますし

当時は、日本を含め、
第二次世界大戦に参戦した全ての国が
必ずしも戦争を望む意見を述べている方ばかりでは
なかったからです。

また、戦争という極限の状態の中、
当時、第二次世界大戦に参戦していたそれぞれの国にも
人としての理想を貫いて善行を行った
人たちがたくさんいました。

アメリカをはじめとした当時の交戦国もそうですし、
日本もそうです。

それなのに、戦争は止められず
あれだけの被害を生んでしまった。

それはなぜでしょうか?

この矛盾について考えなければ
私たちの住む世界は、また近い将来、同じことを
繰り返してしまうのではないかと思うのです


困難な中、他の方に愛情を注ぎ、
人として生きる理想を貫いた人たちがいたことを忘れ
「加害と被害」という視点から過去の戦争を
検証することは、

過ちをののしり
新たな憎しみの連鎖を生むだけに
なってしまう可能性があります。

赦し、赦されるために

そして、かつて交戦した国々の方たちと
未来を作っていく最良の方法を模索するために

なぜあのような悲劇を生んでしまったのか
歴史の事実を学ぶとしたら、
あの戦争は、

今を生きている人
そしてこれから生まれてくる人の
命を守る尊い教訓になるのではないか、と思います。

ぜひ、そうあってほしいですね。

ご存知のように、国際情勢が悪化する中、
進歩した科学技術のおかげで、
自国にいながら
他国に核兵器を到達させることのできる
ミサイル技術が完成しています。

このことから分かるように、核や平和維持の問題は、
対岸の火事ではなく、私たち一人一人の生活に直結した
問題なのですね。

戦争や核の問題を考えることは、
ほかの誰のことでもなく
自分の生活を守ることでもあると思うのです。

それは、同時に他の国で生きている人
そしてこれから生まれてくる世界中の
人の命を考えることでも
あるはずです。

そんなことを考える余裕なんてない
日々の生活のことで精一杯なんだ
仕方ないじゃないか。

他人様や
見たことも聞いたこともない外国のことなんて
考える余裕なんてないんだ。
仕方ないじゃないか。

世の中の流れが芳しくありませんから
きっと、そう考える方も多いと思います。

生活していくことは、とても大変なことで、
自分の周囲のことで手一杯というのが
現状ということも珍しくありませんから
無理からぬご意見だと思います。


ですが、私たちの生活は、
経済の発達によって否応なしに、
世界の動きと連動する時代になっています。

その動きが、私たち一人一人の生活に
リアルタイムに
直接影響を与える時代になっているのです。

何気なく見過ごしてしまいがちですが、
ちょっと観察してみてください。

たとえば夕食のお買い物にでかけるスーパー

食料品やティッシュが値上がりしていませんか?
夏が旬で、値段がうんと安くなるはずの野菜が
異常なくらい高くなっていませんか?

その理由を全て説明する
紙幅はありませんので割愛しますが、
大きな原因の一つは

食料品を包装したり製造するための材料になる石油が
他国の戦争で値上がりしているからです。

このように、
聞いたこともない遠い遠い国で起きた出来事のせいで
私たちの明日からの生活が変わってしまうことが
いつ起きてもおかしくない時代になってるのですね。

世界の平和を考えることは
私たち一人一人が自分の生活を守ることでもあるのです。

何も難しいことを考えることはないと思うのです。

私たち一人一人の生活が世界と密接につながっている以上
自分の生活圏の中で見える何かを考えることで、
この世界が変わっていくと思うのです。

「戦争」という国家規模の巨大な問題も
要はこの世界で暮らす
私たち人間一人一人の生活から生まれてくる
問題なのですから。

なにより一番恐ろしく危険なのは、
他者に関心を持たないことなのですね。

自分や自分の大切な人が
真に安全に暮らしていけるためには
どうしたらいいのか。

この国に暮らす一人一人の人が、この問題の
真の解決方法を模索し
他の意見を持つ方たちと論議して最良の方法を
考えることで、

核を含めた平和の問題や、
不安定な世界は、大きく変わっていくのではないか、
と私は考えています。

広島、長崎の原爆、
そして第二次世界大戦の本土空襲で亡くなられた民間の方、
ならびに戦闘行為によって尊い命を落とされた
日本の兵士の方々、当時の交戦国の兵士の方々、
そして民間の方々に慎んで
哀悼の意を表します。
 

正義の名の元に

多くの方の命が奪われることが
もう二度とないように

そして、神の心を宿した人たちが
一刻も早く、尊い命を奪い合う争いをやめてくれることを
心から願ってやみません。

MAY GOD BLESS YOU ALWAYS

2013 8・9 松沢直樹

※「被爆者の声」ホームページの管理者様には
リンク許可について、ご好意をいただいたことを
心より感謝いたします。

また、長崎の原爆をモチーフにした拙著児童向け小説「ぼくたちの空とポポの木」について、挿画の協力をいただいたイラストレーターの渡邉美奈子様、出版に尽力していただいた有限会社「眺」様、書評をいただいた児童文学作家の ながたみかこ様

そして、拙著を手にとってくださって、他の方に一読をお勧めいただいた読者の皆様に感謝いたします。

ウェブ上で、無料で立ち読みができますので、機会がありましたらぜひご高覧ください

Machi_00031_7 ぼくたちの空とポポの木
理想書店

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August 06, 2013

広島原爆忌

間もなく8時15分17秒を迎えます。

僕が住む関東地方は、昨年とは違って静かな暑い朝を迎えました。
薄曇りながら、いつもの年のように、蝉がにぎやかに鳴く夏らしい一日です。

朝食をとり、こまごまとした用事をすませ、生活の糧を得るために働く準備をすることは、いつもの朝と何ら変わりありません。

68年前のこの日のこの時間に、広島で過ごしていた人たちも、たぶん多くの人が僕と似たような時間を過ごしていたのでしょう。

その人たちが、8:15分を境に、どのような時間をたどることになったのか。

多くの資料を目にし、その現実に直面した多くの方から生々しい体験をうかがってきましたが、その全てを知りえることはできないにしても、いかに凄惨な現実がそこにあったのか知ることができるように思います。

NBC・長崎放送の記者として活躍された伊藤明彦さんは
ご自身の被爆体験を通して、
1971年より、全国を訪ね歩いて
ヒロシマ、ナガサキの被爆者の方284人の証言を、
音声ファイルに収めていらっしゃいます

被爆者の声 ヒロシマ・ナガサキ 私たちは忘れない
※クリックすると、音声ファイルを納めたホームページに
ジャンプします。ぜひ一度ご高覧ください

僕が生まれる23年前に、戦争は既に終わっていて、原爆のことも歴史として扱われるようになりつつありました。

僕自身、テレビを見たり、出始めのテレビゲームで遊びながら育った世代ですので、今のお子さんと近い感覚の中で育ったのではないかと思っています。

ただ今と唯一違っていたのは、すでに歴史のこととして扱われ始めていた戦争や原爆について、身をもって経験した方が周囲にたくさんいたことではないでしょうか。

当時は子供でしたから、怒りの入り混じる戦争の事実を伝える声を、ただ恐ろしい事実としてしか捉えることができませんでした。

また、長崎出身の両親を持つ、私と同じ年齢の世代の人が、被爆二世と言われて、いわれのない差別を受ける姿も目にすることがありました。

社会に対してなんの影響力も持たない若かった私たちは、あらがいこそするものの、理不尽に苦しんだことは、今でも忘れることができません。

ですが、今思い起こしてみると、多くの方に共通していたのは、戦争はいつの時代も自分の身の回りに存在する脅威だということ、そして、一人ひとりが自分の生活に関わる問題として捉えなければいけない問題だということではないか、と思います。

その声が年を追うごとに強くなり、今では、国家や世代を超えて、そのような悲劇を繰り返さないことを願う声が多く聞かれるようになった気がします。

残念ですが、その声は、当たり前のこととしてこの世界に浸透するまでには至っていません。

当たり前のことが当たり前でなかった今までの世界を変えるための
勇気をぜひ持ってください。

そのことが、そう遠くない未来に実現するように、今朝は静かに祈りたいと思います。

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